ことばと音の記憶

最近、「絵本を見る眼」という本を読んだ。 絵本の編集者をしている方が書いたエッセイになる。 他人の考えを本で読むというのは面白いな。 知らないことを知る。 「絵本を見る眼」 もうどんな内容の本だったのかは、あまり記憶にないのだけれど。 人間が言葉をおぼえるのに、やはり「音」からはいる事ということ。 それを痛感したのだった。 私は、そもそも貧しい生まれのものなので、友人たちの自宅へ遊びに行くと、自宅にはない文化にふれることが多くあり、その環境の差を思い知った。 音。 音か。音の思い出。 友人宅で、流れていたビートルズ。 小学生のころだ。 自分の家にないものが沢山あった。 部屋に英語の曲が流れている。 それだけで衝撃的だった。 私の家では母が音楽を聴くことを見たことなかったな。母の耳は片方聞こえないから、それで音楽とは遠ざかっていたのかもしれない。そうだな、時々美空ひばりさんの曲「川の流れのように」を口ずさんでいた。あの頃は、テレビで歌番組がたくさん見れた時代だから、母が音楽を聴く媒体はテレビだったかもしれない いつも懸命に働いて、養ってくれた母だ。それなのに、今も親孝行できずにいる自分を悲しく思う。 絵本の読み聞かせがどれだけ大切か。 それはよくわかった。 私の記憶では、母の声で本を読んでもらったのは、保育園までであった。 この「絵本を見る眼」という本を読んで思ったのは、小学生になっても、親は子に本を読んであげるほうがいいということだ。 小学生低学年は、まだまだちいさい子供で、大人と接することが多いほうがいい。 ご両親が読んであげる本とその時間で、小さなひとは美しい言葉を学ぶだろう。 そう思った。 ほとんど自宅で過ごす私がたまに外に用事があって出かけた時、スマートフォンの動画に子守りさせている大人を見かけると、切ないきもちになるのだが。 周囲や社会が子供が泣くということに厳しいと、簡単に泣き止む方法をとるしかないから、なんともいえない。だから、スマートフォンを使っての子守りも一概には責められない。 不思議と子連れの外国の観光客ではそれは見かけないが、日本の人では、よく見かける。なぜだろう。 スティーブ・ジョブズが自身の子供にはスマートフォンを与えなかった話は有名だ。私はジョブズのような上司は嫌だが、自分がもし親だったら、ジョブズと同じことをするだろうな、たぶん。 私個...

誰のための創作か(1)

 今日、「9人の翻訳家 囚われたベストセラー(字幕版)」をみた。

この映画のポスターが貼ってあったのを思い出した。
「広告が派手ではないが、すごく良い映画を上映する」映画館の近所で、私は当時、働いていた。

私は、仕事で翻訳の経験はないが軽いものの校正経験はある。
この映画が上映されていた当時、私は校正のアシスタントとして働いていた。
校正は、軽いものから重いものまであるが、私は軽いものしかしたことがない。
重いものは、小説だったり長い文章だったりするのだろう。事実を事実かどうかも、調べて校正するようであった。だから、語彙だけがあれば良いって
私は、広告関係の業務経験しかないので、それを考えると重い校正をなさっている方は尊敬しかない。
軽いものでも、危ういキーワードなどは、かなり気を遣っていた。赤いペンでチェックして、原稿のコピーに書き込んでいくのだが(「赤いれ」という)「この表現で大丈夫でしょうか?」と書いたこともある。身内では使って良い言葉でも、世の中的にはNGな言葉などもあるから、そこは気にしていた。
ああ、今、ブログなんか気軽に書いているが、私は大丈夫なのだろうか。
(仕事ではないので、緊張感がない気がする)

「校正をしている人がいる」
その存在が世の中にわかってしまう時は、正しい校正ではなく間違えた時なのだ。普段は誰も、そんなことを気にせずに文章を読んだり、広告を見るだろう。
間違いが世に出て、誰かが気がつく。
その時。
「これを校正している人がいる」ということを誰かが知るのだ。

翻訳者が名前が表に出ないと言う印象は私にはなかった。
小説などを読む時は、翻訳者の名前が表紙に記載されていたりするからだ。
でも、翻訳者も校正者と変わらないのかもしれない。間違いや表現が合わないと受け取る側がわかってしまった時にその存在がいることを、こちら側が知ることになるのか。

創作というのは、お金を得るための手段という人もいるだろうし、自分の楽しみだけのためにやっている方もいるだろう。
私は今まで、自分の楽しみだけに絵を描いてきたから、この2年は見えない誰か(見てくれるだろう誰か)を思って公募の絵を描いたのは新鮮だった。
でも媚びて絵を描いたつもりはない(笑)。

映画に出てくる「小説を書いた本人」を見ていると、自分とその大切な相手だけが知っていれば良い作品だったのだと思った。登場人物の中には、世の中に向けて小説を書き、自分の創作を認められることにより、自身の存在の価値や意義を見出そうとする人もいた。
「本人は、どちらが幸せなのか」ということか。
世間に足を揃えると、自分が苦しくなる時があるのを私は知っている。

見ていて泣いてしまった私だが。
才能があるものには、それを利用して自分が儲けようとする人が必ず出てくるものだな。
それは、何を見ていても思う。
ということは、、、利用しようとする誰かが現れたら、私も才能があるということか、笑
(お待ちしています、、、笑)

後半、いろんな言語が行き交う映画であったが、私にはそれがスペイン語なのかギリシャ語なのか、、、区別がつくわけもなく。
語学ができる人は羨ましい。

「ユリシーズ 」という言葉が映画で出て来た。
「ユリシーズ をジョイスが書いている」という受験まがいなこと、どこで知ったのだろうと思いながら見ていたら、職業訓練を受講するのにテストがあって、その対策で出てきたのを思い出した。
アホな私だから頭の良い友人に、高校受験時、教えてもらったのだろうと思い込んでいたが。
職業訓練の対策サイトだったな!
今年、ユリシーズ という言葉を聞くのは2回目だ。
ユリシーズ は言葉遊びが凄くて、読むのが難しいと聞いている(翻訳が大変だっただろうという感想をアマゾンで読んだ気がする)。
「失われたときを求めて」はオスカーワイルドだっけ?と独り言を言いつつ。

調べたら、マルセル・プルーストであった。
全く興味がなかったが、映画に出てきたので読んでみたくなった。
これは長大作らしい。
「人生で文学ってあまり読んでないわね?」と自身を振り返りつつも、主人公と同じで、私も本や優しい人に助けられて、人生をここまできた一人である。
誰かが紡いだ秀逸な物語は、人生を助けてくれる。
本屋のあのかたは、それを多くの人と分け合いたかったのであろう。

面白い映画だった。
あの時のポスターが懐かしく感じる。


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「落雷と祝福」岡本真帆(著)、読了。